addio

アッディーオ

尊いということ

 

少し前に公園でシャボン玉おじさんを見かけました。車の助手席から見かけただけだったので、もしかしたらお兄さんだったかもしれません。そして公式にそう呼ばれている方だったかもわかりません。

 

夕焼けにさしかかるなかで、藤の絡むベンチや古い遊具の傍で、はしゃく子どもたちに囲まれて次々とシャボン玉を生み出していく。

美しい影絵のようでした。

 

私がやりたいのはああいうことなんだと思いました。手段は違うかもしれません。場所も違うかもしれません。それでも本当に尊いおこないというのは、ああいうことなんだと。

蝶の墓

 

私が彼女の言葉に出逢ったとき、彼女はすでにこの世にいなかった。

いなかった?違うな。いる、けれども、人間ではなくなっていた。私たちが知覚できる生物としての人間。私は彼女の言葉に出逢い、彼女の世界の一部を取り込み、いまは彼女の一部を肉体と精神の欠片として持っている。

 

二階堂奥歯

 

八本脚の蝶。

 

彼女の世界が私の世界を形づくり、変容させ、変化させた。それは繭の中で幼虫が溶けてまったく別の存在に生まれ変わるような体験だった。己の変化を体感し自覚するという体験は、このときが初めてだっただろう。

 

彼女の言葉。

 

彼女の世界。

 

もしも、もう少しだけ彼女が生まれるのが遅ければ、今この時代、精神病について情報が溢れ患者が増えて多少は理解があり、SNSで苦痛を共有することができるようになった世界だったなら、彼女は生き延びられたのではないか?と思ってしまう。彼女の高潔かつ過激な精神がそれを許すかは別として。

 

私は見たかった。生き延びた彼女を。もっと先を生きる彼女を。

彼女の言葉を。彼女の世界を。見てみたかった。

 

愛しています、奥歯さん。

どうかあたたかな場所で、安らかに眠られますように。

 

 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

本音

 

無意識のうちに選択され捨てられる。そのことが悲しいし腹立たしいし憎らしい。悔しい、とは思う。彼の立場を妬んではいない。死ねばいいのにとは思わない。ただひたすら腹が立つ。

 

私は絶望などしない。

 

 

今回よくわかった。昔から理解はしていたけど忘れていた。弟が一番で、私は二番目であること。二番目でも前提として愛されているのだから、大切にされているのだからいいだろう、ということではない。

(そもそも弟へ向けられるそれが愛なのか?ただひたすら甘やかすことが?)

 

私は、せめて期日で帰ってきて欲しかった。それぐらいには弟に厳しくしてほしかったし、私を大切にしてほしかった。私を優先してほしかった。

 

だめだ。

いまのままじゃだめだ。

 

苦しい。

 

もっと清らかでいたいのに。

 

(それでも私は絶望などしない。)

 

 

雑記

嫌われる勇気を持とう。

他人があなたをどう思うのかなんて、他人の課題です。

嫌われることを怖れて、あなたが自分らしく振る舞うことを止めてはいけません。

それは、自分の課題に他人を介入させていることになる。

あなたが幸せになる方法は、自分らしさを失わずに人々に貢献していくことです。

アドラー心理学サロンより)

 

 

「自分らしさを失わずに人々に貢献していくことです」には頷くけど、なんだかなあ…。

たぶん私の解釈が間違っているのだろうけど、「他人なんてどうでもいいではないか、ありのままの自分でいよう。それが一番大事だ」というふうに聞こえてしまう。

 

そりゃあそうできれば「自分は」幸せになれるのだろうけど、そのとき「他人」は?とどうしても考えてしまう。たとえ優しい言葉であったとしても、突き放されれば、苦しいだろうに。悲しいだろうに。情けなく、悔しいだろうに。それとも他人に嫌われる(気に入られない)性格を、体を、顔をしているからしょうがないの?それっていじめる側の言い訳と同じなんじゃないの?(あの子もいじめられる要素あったよね、とか)

 

こういうのは経験からか、とてもじゃないけど、私には受け付けない。だから「嫌われる勇気」も古本屋に売ってしまったのかもしれない(そのときは自覚していなかった)。

 

もちろん他人が自分をどう思うかを気にしすぎて、「自分」を生きられなくなるならそこから抜け出すべきだし、それに「自分にとって有害にしかならない人間関係」からは脱却するのが一番だけど。それでも。

 

きれいごとなのかもしれないし、キリスト教的考えに偏っているのかもしれないけど、私なら「嫌われる勇気」よりも、他人、他人というか周囲の人がぶつけてくる怒りや苦しみを受け止められるくらいの強くて大きな器がほしいと思う。なかなか手に入らないだろうし、「嫌われたくない」という自己中心的な考えがあるのは否定しない。

 

まず、「嫌われる勇気」を持てないとわかっているんだろうな、自分は。だから両極端に「受け止めるための強くて大きな器」がほしいと思っているのかもしれない。

 

 

幻視と蝶々

 

私が中本道代さんの詩に惹かれるのは、二重の世界をしっかりと描いているからだ。文学界では「幻視」と分類されるのだろうか。幻のように立ち現れる世界の断片。いくつもの世界は玉ねぎのように重なっていて、それに気づかない人も、気づく人も、いろいろなかたちで表現できる人もいる。

中本さんは、特に『花と死王』で二重の世界の断片を拾いあげ、詩として描くことをしっかりと身につけた気がする(上から目線に見えたら申し訳ありません…)。だから私は『花と死王』が特に好きだ。鳥や神の視点に近く、拾いあげた世界の断片は詩のかたちを越えてどこまでも遠く広がっていく。

 

そこには一人でしか行けない。でも誰かに指し示してもらわなければならない。

誰かの手をかりて二階堂奥歯を抜け出した私はその場を越えて旅立つ。一人きりで。

行ったっきりになってしまいたいけれど、それは、相手に迷惑がかかる。だから、いつも帰ってくる。

帰ってくる、いつも。

帰ってきたくない。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』)

 

私が二重の世界の存在をしっかりと感じ取れるようになったのは『八本脚の蝶』のおかげだと思う。私が見ている「世界」が奥歯さんと同じだとは限らないけれど。

決定的に異なるのは、「誰」にもその場所を指し示してほしくないことだ。

本ならいい。詩ならいい。絵ならいい。写真ならいい。光ならいい。

でも、「誰か」じゃだめだ。

そして自分を抜け出したくなんかないと思う。たとえそれが正当な方法だとしても。

私は自分として、その場所を見続けたい。行ってしまいたいとは思わない。

 

(そうか、それであなたは行ったっきりになってしまったのですね、奥歯さん。)

 

あなたはいつも願っていた。

傷を与えて。苦痛を与えて。自我を忘却するくらいの苦痛を。

それに反する怯え。

痛いのは嫌。苦しいのは嫌。

マゾヒストの方がわがままだというけれど、本当にそうなのかもしれない。

でもそれは希う力が強いということだ。強すぎて、あなたはいってしまった。手の届かない場所まで。

 

どうかそこがやわらかな繭のなかのような場所でありますように。

光に満ちた場所でありますように。

 

私は手放さず、見続けます。二重の世界を。あるいはもっと遠方を。

 

 

接吻

接吻

 

 

 

中本道代詩集 (現代詩文庫)

中本道代詩集 (現代詩文庫)

 

 

 

花と死王

花と死王

 

 

 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

暴行事件について

私は二階堂奥歯『八本脚の蝶』の読者の女です。この本には社会のジェンダー意識に苦しむ奥歯さんの声も綴られています。そして自らをフェミニストでありマゾヒストだと書いてあります。『八本脚の蝶』に大いに影響された私はそれでもマゾヒストではありませんし、ジェンダー意識に苦しむこともほとんどありませんが、おそらくフェミニストだといえるだろう、という立場です。

 

そんな私がNGT48山口真帆さんへの暴行事件について、何を書けるだろう、とずっと考えていました。一番不思議なのはこの暴行事件の加害者が不起訴になったこと、そして欧米諸国なら連日大きく報道されるだろう問題なのに、ほんの少ししか報道されないことでした。普段は見ないワイドショーなども意識して見るようにしましたが、テレビにはほんの少ししか報道されておらず、またその情報もネットとは違っていました。ネットのほうが生々しい真実を伝えているように感じましたし、筋が通っているように思えます。

 

AKB48のファンで、ファン内部のことにも詳しい友人に色々と「真実」を聞かされましたが、その「真実」が本当ならば、加害者は起訴されるべきでしたし、共犯者(加害者)は自らグループを脱退するべきだと思います。あくまで友人に「真実」を教えてもらった私個人の考えでしかありませんが。

 

罪を犯したものは裁かれる。そんな当たり前のことが、どうしてこの国ではできないのでしょう。加害者が御曹司だからでしょうか。メンバーが「可愛い」からでしょうか。結局権力者やお金持ちが得をする世の中になってはいるでしょうが、それでも最低限のことは守られるべきではないでしょうか。

 

最低限のこと。罪を犯したものは裁かれること。

 

本音:とりあえず加害者は去勢されろ。

降ってきた言葉7

 

時には他者の視点に立って物事を見てみましょう。

憧れの人や身近な人から始めるといいかもしれません。

あるいは花の目、獣の目、鳥の目、天使の目になって、物事を見てみましょう。

憎しみは去り、自然と他者に親切にできるようになるでしょう。

また、新しい展開が開けてくるはずです。

その時は自分を信じて、一歩前へ進みましょう。

 

(降ってきた言葉、190118・9:50)